2012年10月28日日曜日

カメラを構えると世界が変わる

何を書こうというわけでもなく、ページの新規作成画面を開きました。思い浮かんだことを思いつくままに書いてみたいと思います。

というわけで、思い浮かんだので、下手の横好きで写真が好きな自分が、カメラを持つときにどんな体験をしているかということについて、書いてみようと思います。
おそらくさんざん論じられているテーマだとは思いますが、自分なりの言葉で、自分の体験を整理するために、書きます。

私たちは、目が見える限りは、当たり前のように景色を見ています。放っておいても、知覚という意味では、風景と呼ばれるものが構成している視覚情報は私たちの目に入ってきています。でも、見えているということが当たり前すぎて、ことさらに注意のフォーカスが向かないことって、多いのではないでしょうか。
感受性の鋭い人だったら、「いつもとちょっと違うな」「そういえばあれは何だろう」などの形で、目で知覚した情報に対する認知の閾値が低いというか、すぐに注意を振り向けられることも多いのかもしれません。でも、私はそこまでではないただの凡人ですので、いろいろなことを見過ごしてしまいがちです。
見過ごしたという表現だと、後になって何かに気づいたとか、誰かに指摘されて気づいたという含意がありますね。そんなわけで、正確には、見過ごしたかどうかも気づけないとすべきなのでしょうが。

でも、カメラを持ち歩くと、ちょっとだけではありますが、風景に対する自分の感受性が、敏感になるように思えるんです。
カメラを持ち歩くという時点で、それは、何かおもしろい被写体や美しい風景、ノスタルジックな町並みなどを求めて歩く、ということを意味しています。つまり、漫然と街や自然を歩くのではなく、いつもは気付いていない「何か」を見つけてやるぞ、見いだしてやるぞ、という構えが、心の中に形成されるといえます。

その結果、見慣れぬ植物の存在に気付くことがあります。「こんなアングルから見るとおもしろいんじゃないか」と思って、道を逸れて被写体を巡ってわざわざいろんな見え方を試すこともあります。車を走らせていて、いつもならそのまま通り過ぎるポイントで、ふと車を停めて周囲を見つめ直すこともあります。何の収穫もなく空振りするけれども、あれこれ探してみた時間が楽しかった、という思いで家路に就くこともあります。
結果はどうであれ、ここでは、目という器官の使い方が、見えているという受動的な状態から、見るという能動的な行為へとシフトしているといえるでしょう。「見えている」から「見る」へのシフト。些細なことかもしれませんが、それは、自分を取り巻く世界に、ちょっとだけ自分が主体的に・能動的に関われる瞬間の萌芽と、いえる気がするんです。

撮り終えた写真や動画を見返すのも楽しいのですが、私は作品は割とほったらかしにしていることが多いです。それよりは、撮ろうと思うに至るまでのごく短い時間に、どれだけ集中して世界を見れるのか、というその意識作りを、カメラが助けてくれているように思えてなりません。
写真や動画を生み出す道具であるのと同様に、あるいはそれ以上に、自分にとっては、カメラは自分が見ることを助けてくれる道具なんだろうと、そう思うときがあります。

まあ、実際にできあがってくるものも好きなので、写真や動画撮影の腕が伴えば、もっとかっこいいのですけどね。そこは今後の課題です。
以上、カメラを構えると世界の見方が変わるかも、というお話でした。

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